ドクオヤ
大学受験専門予備校でのアルバイトも四年目になると、様々な親子を目にします。
受験校を決めなければならないこの季節、保護者との関係に悩む生徒は特に多くなり、親の希望と子どもの希望、現実的な成績が噛み合わなくなると、事態は混沌とし始めます。
「マーチ以下は受ける価値がない」
「せめて○○以上は行ってくれないと」
保護者のこんな言葉にはよくもまあ、と言いたくなります。
価値って、誰が何基準で決めるのでしょうか?
少なくとも、子どもの人生の幸せは、子どもが固有に感じるものであり、どう暮らそうと他人がその価値を決められるものではありません。
出来るのはお手伝いや気配りであって、価値のあるなしを断定することではありません。
強い言葉が頑張るためのガソリンになってくれれば良いのですが、上記のような否定的な言葉は多くの場合黒い暗いもやとなって生徒をとことん追い詰めます。
毒は薄めれば薬にもなりますが、毒のままだと命取りにもなり得ます。
家では涙をこぼさず予備校でポロポロ泣く子を見ると、泣ける場所がここにあってよかったと思うとともに、本来はそれが家であって欲しいと勝手な欲が出てきてしまい切なくなります。
なぜ、学校から塾に直行、やりたいことを我慢して、志望校合格のため毎日机に向かう生徒を家でもなお追い詰めるのかと、怒りがこみ上げます。
私が聞けるのは子どもの言葉だけですから、どうしても生徒贔屓になってしまうのですが。
ていうか、受験を取り巻く環境は年々変わっていて、文科省のお達しなんかも色々あり、大学合格は数年前より確実に難しくなっている。
ここ数年でも大きく変動があったのだから、親の受験経験に基づいた感覚でものを言われると困ってしまう。親子三代〇〇に行っているからこの子も〇〇に行かせないと、なんて言われても、困るっちゅーの。
「子どものことを思えばこそ」
「あなたのために言っているの」
本当にそうでしょうか?
子どもと親は違うのだ。違う人格の人間なのだ。
自己と子どもの切り離しが上手くできない親は思ったより多いのだと気付かされます。
親もまた、子どもの失敗は親の失敗だという強迫観念に囚われて苦しんでいるのでしょう。親にかかる子育ての責任の割合は肥大し続ける時代です。子どもが「失敗」しないように、させないために、心を砕き、だからこそ子どもが「成功」すればその手柄は親のもの。
不健全に思えてなりません。
本人が誰かのおかげで今幸せだ、誰かのサポート無しにはここまで来られなかった、と表現するのは自由ですし、わたしにも感謝している人はいます。
けれども感謝されている本人が「俺のおかげでお前は強くなれたんだ」なんて言うのは、意味が違ってきます。それはただの押し売りです。
歪みなく現実を見て、共に喜べば良いのだと思います。
さて受験もあと2ヶ月。
生徒がオヤのドクで死なないように、わたしはゆるふわの魔法が使えるように修行中です。