かにのにかブログ

日々のモノローグ置き場。

日の丸なんて背負わないでおくれ

ガンバレニッポン。サムライジャパン。ミンナでニホンをオウエンシヨウ。スポーツのチカラ。カンドウのウンタラカンタラ。

控えめに言っても鳥肌製造機なフレーズがメディアで羅列されている。焼鳥屋にでもなるつもりか。鶏皮って美味しいよね。味付けは塩で頼む。現実逃避しながら遠巻きに眺めていたら本当に実施されるようでびっくりしている。

 

スポーツ選手ってすごいと思う。勤勉に練習を積み重ね、プレッシャーを跳ね除け結果を出し続ける。でもこれはあくまでもわたしの解釈だ。その行動やその言葉から何を解釈として導き出すかは人それぞれ違うし、一人一人にとっての真実ではあるかもしれないが、正しいとは限らない。「これは私の解釈ですが、これこれこうで素晴らしい」とか言えばいいし書けば良い。生まれた土地がたまたまここだったというだけで「ニホンゼンコクカンドウノウズ」に巻き込まれるのはまっぴらごめん。わたしはわたしで勝手にやっとくから頭数に入れないで、なんてコクミンデアルコトノ責任の放棄だろうか。

テレビの前のミンナが応援したから勝ったとか、傲慢だ。スポンサーが金を出す出さないのドミノの一つにはなったかもしれないけれど。だから日本国中に感謝しなくてもいいし日本のために頑張らなくていいのだ。関係者やファンに感謝したいならすればいい。感動を届けなくていい。勝手にしたい人がしとけばいいし、それを選手の義務のようにおしきせ、権力のもとに同調圧力をかける報道の仕方に腹が立つ。

 

そして最後に、勝手に期待して勝手にガッカリするな。

豆仮面

本来の私はものぐさだ。

夏休みの宿題は夏休み中に終わったことの方が少ない。始業式の後、提出日までの猶予期間に必死こいてやっつけて提出。それならいっそ提出も諦めればいいのに、かっこつけでびびりの自分がそれを許さない。

寝汚く始業30分前まで寝ているし、土日は用事や約束がない限り布団から出られない。トイレットペーパーの芯は都度捨てればいいのにトイレに並べられていて、半年に一回くらいしかゴミには出されない。こないだ溜まった通販の段ボールをやっと古紙回収に出した。多分30箱くらいはあった。

SNSを開く頻度も低く、LINEやメールは溜まる一方で根気よく返信を待ってくれる、もしくは2週間くらい返信がなくても気にしないラブリーなお友達ばかりと付き合っている。このままだとまずい気がするから、26歳になったらちゃんとすると言ったらわたしの理解者は鼻で笑って一言、無理だね、と言った。圧倒的に正しい。

 

だというのに毎日まめなふりをして仕事をしているから無理が生じるのである。仕事内容がほぼ「連絡」といっても過言ではなく、来た連絡にはその日中にしかもなるべく速やかに返信をせねばならず、あまつさえこちらからも連絡をしなければならない現職についてから、私生活のものぐさ度はどんどんレベルアップしている。ボスキャラも倒せる勇者くらいには。まめの仮面を被りめんどくさいを封印して、放っておけば1日に何十通もたまる様々に目を通して返信してるのだから、反動で私用のLINEは見れなくなった。通知は常に0になることはない。社用のLINEは深夜だって土日だって鳴り続ける。勤務時間外には返信しないという技を使ったって、始終誰かと繋がっている感覚はわたしを磨耗させる。コロナがもたらした繋がり賛美の中で、過度の繋がりは毒になるとかなんとかごちゃごちゃ考えてしまうほどには。

豆仮面という別人格になりきることの快感と不快感を飲み下しながらわたしは今日も元気にオセワニナッテオリマスの呪文を唱えている。

まあそんなこともある

わたしの口ぐせ。

友人に言いすぎと指摘されるほど、頻繁に言っているみたい。

元は母の口癖でもある。まあそんなこともある、少しのことで最悪って言っちゃいけない、絶対は余程のことがない限りない、幼い頃から聞き続けてきた言葉はいつのまにかわたしにも染み込んでいた。

 

人間生きていれば、いろんなことが起こるのだ。

まあそんなこともある、と言い続けた結果、大分丸く、緩くなってきた、ように感じる。

良いのか、悪いのかはあまりわからないけど、他人にも自分にも優しくなって、生きやすくなったことは確かだ。

嬉しいことには過剰なくらい喜び、不運に出会っても、まあそんなこともあるで乗り切る今のわたしのことは、結構好きだ。

さて、明日からまた仕事。まあそんなこともあるよね。

菌が感染る

ほとんど誰にも話したことがない、原体験とも言えるトラウマをそろそろカタチにしてもいいかもしれないと、ここでいっちょかさぶた剥がしてみようと思い立ったわけである。わたしがもっと自由になるために。

これから書く内容は、人によっては不快な気持ちにさせてしまうかもしれない。自分の心の安心を1番に、少しでもむりぽよってなったら速やかにこちらの画面を閉じて最近あった素敵なことを思い浮かべて欲しい。

 

さて、昔々、わたしに触ると菌が感染ると言われていた時代があった。ジメジメ、ムシムシ、密室で自意識が互いを攻撃しあっていたあの頃。

同質性と伝統を偏重する地元の中学校で、みんなと同じになりたくてなれなくて、流行りについて行けてなくて、そのくせプライドは高くて負けず嫌いで、自分はいつでも正しいと思っていたし先生にも好かれていた四角四面のわたしは、狭い水槽の中ではきっと目障りだった。

カゲグチやシカトやコウゲキはいきなり始まる。耐えて耐えて波が去り他者に波がかかる時を待ち、息ができると思えばまた次の波が来る。息と言ったって目立たぬように。波と波の感覚や標的は奴らの気まぐれで決まる。自分の下に他人がいると思い込むことによって安心を得るマジョリティに構成された組織に、ただ住んでいる地域がそこというだけで組み込まれた。

自分のことは被害者だと思わない。思えない。他者が波に溺れかけている間わたしは安堵でいっぱいになり、願わくばわたしにとっての平穏が長く続きますようにと、無関心を装う加害者になっていたのだから。

 

偶然わたしに触れた手はタオルや衣服や体育館の壁で拭われた。それは奴らにとって潔白を証明し、集団に属するために必要な儀式だったから。

身体的な接触は、その時からわたしにとって親愛を示すものになった。少なくとも、白旗をあげ害意がないことを表現するような。好き、わたしにとってあなたは大切な人、を伝えるために自分から人に触るのは好きだけど、人から触られるのは今もまだ少し苦手だ。苦手というか、とってもとっても嬉しいのに、あなたに触ってもらえるほど綺麗なものじゃないと、躊躇ってしまう。がっかりさせやしないかと心配になってしまう。他者から押し付けられたあるはずもない病が完治してない自分に笑いが込み上げてくる。

それなりに当時の状況を咀嚼して、理解して、10年以上経って折り合いをつけたつもりなのにまだ囚われているわたしは今でもまだあの蒸し暑い体育館の夢を見る。惨めで苦しくて憤りが身体を熱くした経験も自分が加害者でもあった事実も、なくしてはならぬと、突きつけられているようで、息を荒くして目を覚ます。

高校は「個性尊重」「自主自立」「自由平等」を教育理念とする、ちょっと変な個人が沢山いるところを選んだ。制服も体操着もなくて、教科書は一部先生たちが作った独自のもので、集団行動が苦手な人も多かった。部活の後輩から抱きつかれた時は涙が出るくらい嬉しかったし、何かが浄化される気がしていた。地元の友達はあんまりいないけど、高校からの記憶ははっきりしているのは、やっと外の世界に自分の居場所を見つけ、愛する人々と出会えてきたからだろう。

あの経験は必要なものだった、だからこそわたしは今のわたしになれたなんて言えるほどには今のわたしはあの頃のわたしを救えていない。

けれどいつか、誰かと一緒にでも、わたしを赦せる日が来るといい。

ルッキズムの中心で呪詛を叫ぶ

カイシャ?シャカイ?なるものに入ってからソトミについての講評をいただくことが増えた。かわいいね、素敵だね、似合ってるねなどなどであれば素直に受け取ってありがとうと言うまで。だって嬉しいじゃん。

好きと可愛いは貯金できるというのは持論。苦しい時にちょっとずつ引き出してクソッタレな今日を生きる糧にするのだ。

 

やれ、顔つきで得してる両親に感謝しろ、他の人と自分は違うって思わないの?、自分のこと可愛いってわかってるんでしょ?エトセトラエトセトラ…

 

まずは過大評価をどうも。そして思いもしなかった価値観を教えてくれてどうも。

そして、うるせえ。いいかよく聞け馬鹿ども。お世辞にしても方向性間違ってんだよ。両親にはもちろん感謝してる育ててくれたことに関して。勝手に遺伝子を有り難がるな。

 

わたしを褒めるのに他人を持ち出してくんじゃねえ。

 

こんなところでわたしの文章を読んでいる愛するあなたがたには誤解を恐れずに言う。

わたしが可愛いのなんて、当たり前なのだ。可愛くて綺麗でありたいわたしが好きだからそうなれるようにしてるまで。わたしは可愛くなりたいわたしのことをよく知ってるし、何故それを他人と比べて勝ち誇る必要がある。知らない間に無用の戦いに巻き込まれている気分だ。ほっとけよ。

 

わたしも他人もそれぞれご機嫌だったらそれでいいだけなのに。

熟考症候群

カイシャなるもので受けた非認知能力なるものを測るテストへの不信感の謎が解けたので記念に記しておく。

形式はこう。

何やら抽象的な、答えがないお題への自分の考えを五分以内に80字で書きなさい。

例えば、貴方は18歳になった日におじいさんから箱をもらいました。その箱の中には、貴方が心の底から感動する(軽々しく感動とか使ってんじゃないよ、けっ)贈り物が入っていました。50才になった時貴方は孫に向けて箱に贈り物を入れます。それは何ですか?理由も踏まえて80字以内で書きなさい。みたいな。興味ある人は円盤形教材でググってみて欲しい。

これを3問やって、貴方はこんな人です、てのがわかる、らしい。人間が採点し、書かれた言葉を分析する、らしい。

その場で苦し紛れに書いた言葉の何がわたしを表してくれるだろうか。一つのアイデアを一度ならず二度三度と眠らせた思考の発酵の末に生まれた文章を、そのための道行を好むわたしにとって上記のテストはチープなカップラーメンみたいなものだ。それなりに美味しいけど、それ以上のものを知っているし、本物ではない感覚を拭いきれない。チープな言葉をご丁寧に分析するなら丁寧な言葉を書かせてくれ。

しかしビジネスのセカイでは素早いアウトプットを求められる。上司のわたしへ口癖は「遅くない?」だ。即答ができないことは私の弱みで、そんなことはわかっている。

 

テストの結果をチラリとみたけど、これが本当に自分を表しているとは思えず、ここで遠吠えしている。オオカミになりたい。

 

インナーカラー

インナーカラーを入れてみた。両耳周りの髪の毛はブリーチを施され、紫からピンクへ、そして金色に移り変わろうとしている。営業職なのに、と嫌な顔をする上司も先輩も同期も後輩もお客さんもいない。なんか、ぽいね、と言ってもらえるこの環境は好きだ。

「なんで髪の毛ピンクにしたの?」という問いには気分と答えるしかない。そもそも自分の見た目には飽き飽きしてるから、髪の毛や化粧やお衣装はコロコロ変えたいし、日替わりで髪の色を変えられたら最高。思いつきだったけれど、色褪せていく様で楽しませてくれるこれにはハマりそうだ。

茶色の髪の狭間からちらりと覗くカラーは内に潜めた自意識みたいで、なんか、わたしっぽいと思う。いっそのことまっきんきんにしてやりたいけれど、それはまだお預け。