あの子と猫とくしゃみとわたし
好きな人が「猫のくしゃみみたい」と言ったから、わたしは自分のそれを好きになりました。
ぶえっくしょい、はっくしょいは、わたしがこの世で一番恐れる音の一つです。
自分のそれさえ怖いから、口を閉じたままぐじゅんと不恰好なくしゃみをします。
さる国ではGod Bless youなんて言葉をかける習慣があるそうですが、とてもそんな余裕はありません。身の危険が、降りかかっているのです。肩を縮こまらせて、自分を守るのに必死です。大きければ大きいほどわたしの不安を増大させるそいつは、例え愛する家族のものであっても、例外というカテゴリーには入ってくれないのです。
かといって、くしゃみ禁止なんていうつもりはなく、わたしの心地良さに関する権利を行使するために他人の生理反応を害するのはわたしのルールに反します。
なんにしろ今日からわたしはくしゃみをするたびに、ねこっとふわっと浮遊感を楽しむのでしょう。
猫が好きなところ、食べるのが遅いところ、使う文法、読み書きが好きなところが似ている彼女と過ごす時間は、足を、腰を、尻を、腹を、胸を、首を顔を頭を撫でさすり身体の輪郭を確かめるように、わたしという人間の輪郭を確かめる時間でもあります。
そうしてわたしたちはそれぞれにこれで良いのだという素敵な諦念とふくふくした心で、また会おうねと言って別れるのです。
人事の怖いお姉さん
人事の人って、大体素敵な人なのだけど、1人だけ、どうにも馬が合わなかったというか、できればもう会いたくないくらい、わたしを恐怖に陥れたお姉さんに遭遇したことがある。
二十代半ばの、テキパキしていて、笑顔が素敵で、仕事もできそうなお姉さん。
なんか、もうこの時点で戦闘力高い。
二次面接にしては長い面談を終えた後、「じゃあ、にかさんの働く目的って何かな?」と聞く笑顔のお姉さん。上手く答えられなかったわたしにお姉さんが語ってくれたご自身の経験が、こちら。
"私は、働くママになりたい。今お付き合いしている彼氏と来年結婚する。子どもは2年ごとに3人産む。そうなると仕事復帰は遅れるし、出来ても時短。
だから私は、復帰した時のキャリアを考えて、営業(法人、個人)と人事を経験して今ここにいる。"
といった話だったと思う。お姉さんの夢を実現するにはなるほど、若手でも自ら手を上げてキャリアアップしやすいその会社が合っていたのだと思う。
そして、働く目的を考えることは宿題となり、電話がかかってくることになった。
自身の働く目的のために、いつ恋するか、いつ結婚するか、いつセックスするかを決めて、子どもが健やかに生まれることを疑いもせず、「輝かしい未来」を信じているお姉さんが怖かった。他人にも強いてくるお姉さんが怖かった。
シャカイジンになるためには、そんなことを決めなければならないのか、そうでなければ無計画でその場しのぎの生き方なのか、考えもしなかった新しいアイデアがもくもくとたちこめる。
その後はお姉さんからの電話に怯えながら暮らしたけれど、今はご縁は切れている。周囲にはお姉さんがいう意味での働く目的は持っていないわたしを、それがいい、と言ってくれる人々がいる。
それでいいのだ。
不条理
さて今年も受験という嵐が到来し、端っこで関わるものとしてぐるんぐるん、渦に巻き込まれている。
胃を痛くしながら回る中で肌を刺すのはこの世の不条理だ。
まれに、不合格の理由がどこを探しても見当たらない生徒がいる。
なぜ、どうして、こんなにも愚直な努力が報われないのだろう。目指してきた結果に逃げられるのだろう。なぜ、どうして、サボっていたあの子が合格するのだろう。
この世の中は適度に手を抜いて、楽をしながら要領よく生きていく人が報われるのだろうか。
一つ一つ、地面を踏みしめて進んできた者の、遠吠えではない腹の奥底から引きずり出してきたような声が痛い。
そうじゃないよ、他の物差しがあるよ、ということは簡単で、正論でもあるけれど、受験に正面から全てをかけて向き合って来た者に伝えるのは残酷でもあって。
本当に体感するのはこの先のことだと思うから、今できるのは涙を受け止めることであって。
誰かを何かで測ろうとする限り、物差しとの相性問題は無くならないのだろう。物差しが測れるのは人の一側面だし、それでも世界は測ることをやめようとはしない。
生徒が泣くたび動揺して、でももう四年目だからそんなシチュエーションにも慣れて来て、心の痛みにも慣れて来て、内心不合格でもあなたの人生が悪いとは限らないし不合格も含めてあなたはあなたなんて思っちゃうわたしは他人への興味が薄れて冷たくなったのだろうかとぐるぐるぐるぐる、回っている。
それでも、わたしはあなたの人生を生きることはできないから、だから不合格の意味は、自分で探して欲しい。それがいつになっても良いから。
慣れてない
あまり気の乗らない飲み会だった。
よく知らない人も来るから。好きな人たちにも会えるから、行く。
何を話そうか、会話に困らないように前の晩から言葉を貯め、普段はしないマスカラを塗り、洋服は母に相談して、心も準備万端、耳たぶを赤くはらして集合場所へ。
いつも通り心配していたことは特になく、むしろ嬉しいゲストが駆けつけてくれたりもして、会は和やかに進んでいく。4年間勤めたバイト先、積もる話は沢山ある。
終盤、可愛い後輩たちが立ち上がり話し出し、この会の主旨を発表。なんと。わたしのお疲れ様会だというのだ。つまりサプライズ。そういえばゲストは皆、わたしに所縁のある人たちで。言葉と、プレゼントまでいただいてしまった。
想定外
本来こんな時に使われる言葉なのでしょうか。
嬉しさと驚きと信じがたさと、サプライズ慣れしていないことが相まって、あまり上手くリアクションができなかった。
これまでしてきたことが、他者からの労いの言葉に値するものなのだと、じわじわと実感に変わっていく。
とにかく慣れていないから、喜びを後から言葉にすることしか出来ないのだけれど。
こういうことに関しては、慣れすぎたくはないもので、せめてその場で気持ちを返せるように、なりたいものだなあ。
誤字
卒論の面接試験最中である。
穏やかな教授が「ひとつ残念なことがあるとすれば、登場人物の名前の漢字が、間違っていますよ」とおっしゃられた。それも最初から最後まで。
変換ミスである。
急いで手書きの構想ノートも見返すと、こちらは正しい方で書かれている。
良かった…ことはない。全く。なぜ、執筆中、推敲中に違和感を覚えなかったのか。
なぜ気づかなかったのか。そんな大事なところ。顔に熱が集まり、汗がじんわり滲んでくる。pochiと名付けたパソコンのせいにしてみようと試みても、今回の件に関しましては一から十までわたしの責任。
三人兄弟の第一子、どこへ行ってもしっかりしていると評される、しっかり者のわたしはどこへ行ったのか。家出か。反抗期か。とにかく最近お留守がち。困ったことにしっかり者は周囲に対して発揮されることが多く、わたし自身に対してはあまり世話を焼くことはないらしい。
友人に別れを告げ、失意とともに家へと帰るが、今日はこの後バイトなのである。切り替えて頼れる塾のお姉さんにならなければいけない。こんな時には甘いものと睡眠。
駅ビルのスイーツコナーへと入っていくが、いちごパフェ900円。となりは、うーん600円。こんなキラキラしたものを食べる資格は、今のわたしにはない。その後も何軒かのキラキラにやられ、たどり着くのはコンビニスイーツ。いちごの飲むヨーグルトと、プリンを購入しても200円とちょっと。すばらしき哉。
家でさっそく。お二方は優しくわたしを癒してくれた。
その後はちょっとだけ泣いて、寝たら元気になったので、「文章が上手いと思いますよ」という教授の声を思い出しながら、残りの今日を頑張ってすごそう。
新年
明けました。
無事に日をまたげたことは、喜ばしいことです。
蕎麦を食し、缶チューハイでご機嫌。
明日はブリの入った白味噌のお雑煮と、おせちを食べます。
母主導の我が家のおせちですが、今年のわたしの担当は栗きんとんと海老の塩焼きでした。
海老の足をちょん切り、背わたを取るなどしながら、こんな目にあうことはきっと海老たちも想像していなかっただろうけれども、美味しく食べるから許せ、などと思ったりしました。
海老は無事に良い匂いをさせて焼きあがりました。
2018年は良き年でありました。
良くも悪くも、自分の根本は変えられないと分かった1年であり、あちこちでマイペースだと言われすぎて自分でも認めざるを得ない事態にも陥りました。
バイト先では女帝と呼ばれ、なのに天然疑惑が急浮上。君臨はしていないし、天然でもないと伝えているのですが、なかなか撤回はされません。
今年は大学を卒業し、大きな変化を免れない1年になります。
立派な社会人になる!とか言ったほうが良いのかもしれませんが、なりたくないので言えません。
すでに週五日朝九時会社到着というパワーワードにやられかけています。いや、本当に出来んの?
でも、まあ、すべてひっくるめて仕事楽しいと言えると良いなぁ。
変わらず「素敵な人を寄せ付けられる人である」ことを目標に、日々を過ごしたいと思います。
面白い人を嗅ぎ分ける嗅覚は、大分磨かれた大学生活でありました。佇まいからなんだか良い匂いがするのです。
何はともあれ、周囲にいる人々とわたしが、健康で、自分のことばで語れる一年でありますように。
本年もよろしくお願いします。
ドクオヤ
大学受験専門予備校でのアルバイトも四年目になると、様々な親子を目にします。
受験校を決めなければならないこの季節、保護者との関係に悩む生徒は特に多くなり、親の希望と子どもの希望、現実的な成績が噛み合わなくなると、事態は混沌とし始めます。
「マーチ以下は受ける価値がない」
「せめて○○以上は行ってくれないと」
保護者のこんな言葉にはよくもまあ、と言いたくなります。
価値って、誰が何基準で決めるのでしょうか?
少なくとも、子どもの人生の幸せは、子どもが固有に感じるものであり、どう暮らそうと他人がその価値を決められるものではありません。
出来るのはお手伝いや気配りであって、価値のあるなしを断定することではありません。
強い言葉が頑張るためのガソリンになってくれれば良いのですが、上記のような否定的な言葉は多くの場合黒い暗いもやとなって生徒をとことん追い詰めます。
毒は薄めれば薬にもなりますが、毒のままだと命取りにもなり得ます。
家では涙をこぼさず予備校でポロポロ泣く子を見ると、泣ける場所がここにあってよかったと思うとともに、本来はそれが家であって欲しいと勝手な欲が出てきてしまい切なくなります。
なぜ、学校から塾に直行、やりたいことを我慢して、志望校合格のため毎日机に向かう生徒を家でもなお追い詰めるのかと、怒りがこみ上げます。
私が聞けるのは子どもの言葉だけですから、どうしても生徒贔屓になってしまうのですが。
ていうか、受験を取り巻く環境は年々変わっていて、文科省のお達しなんかも色々あり、大学合格は数年前より確実に難しくなっている。
ここ数年でも大きく変動があったのだから、親の受験経験に基づいた感覚でものを言われると困ってしまう。親子三代〇〇に行っているからこの子も〇〇に行かせないと、なんて言われても、困るっちゅーの。
「子どものことを思えばこそ」
「あなたのために言っているの」
本当にそうでしょうか?
子どもと親は違うのだ。違う人格の人間なのだ。
自己と子どもの切り離しが上手くできない親は思ったより多いのだと気付かされます。
親もまた、子どもの失敗は親の失敗だという強迫観念に囚われて苦しんでいるのでしょう。親にかかる子育ての責任の割合は肥大し続ける時代です。子どもが「失敗」しないように、させないために、心を砕き、だからこそ子どもが「成功」すればその手柄は親のもの。
不健全に思えてなりません。
本人が誰かのおかげで今幸せだ、誰かのサポート無しにはここまで来られなかった、と表現するのは自由ですし、わたしにも感謝している人はいます。
けれども感謝されている本人が「俺のおかげでお前は強くなれたんだ」なんて言うのは、意味が違ってきます。それはただの押し売りです。
歪みなく現実を見て、共に喜べば良いのだと思います。
さて受験もあと2ヶ月。
生徒がオヤのドクで死なないように、わたしはゆるふわの魔法が使えるように修行中です。