かにのにかブログ

日々のモノローグ置き場。

安易に使わないで欲しい

「こんな幸せな日々がずっと続くと思ってた……」系統のおきまりの文言が苦手だ。小説でも漫画でも、ドラマでも映画でも。告知に使われるとがっかりする。

なぜこれから悪いことが起きると描写ではなく直接的に暗示してしまうのか。わたしは甘ちゃんだから、エンディングを盛り上げるために用意されたにっがい苦いチョコレートがこれから出てくると分かっていた状態で咀嚼をしたくない。つまり、読み進めるための気力が著しく低下する。

意外性を作り手自身でむしり取ってしまえば、後に残るのは予定調和の困難と、とって付けられたハッピーエンドでしかない。

 

そもそも語り手の現在はどこにあるのか。読みながら時も追ってきたのに、唐突な回想の文言が挿入されると一気にテクストとの距離が出来る。一緒に進んでいると思ったのに、自分だけ一周遅れで走っているような。

戦略的にやっているなら良いとしても。

 

さりげなく香るくらいが好きだ。

like a baby

休みの日のわたしのことは、ほとんど赤ん坊だと思って欲しい。

 

休日は何も予定がない限り、ずっと寝ている。先日はというと、7時30分に起きて二度寝。12時頃起きてテレビを見ながらお昼を食べ、18時頃まで昼寝。ご飯を食べたらもう眠くなる。好きな時間に好きなだけ、眠りの中で揺蕩うことのできた日々を郷愁と絶望と共に思い返し、贅沢に身体を横たえられる休日が過ぎ去っていくのを、すくい取った砂が指の間から溢れ落ちていくときのように眺める。あたまとまくらが離れる気配はなく、ここが本来の居場所であるかのように身体は布団に沈み込んだまま。

 

仕事するかもって持ってきた黒い機械はカバンから取り出されることもないまま、月曜日を迎える。

しょうがない。赤ん坊には仕事はできん。

 

 

 

 

BかAB

ABOABによって得られる決めつけや傾向を信じておりません。あれは人を納得させる後付けの迷信のようなものであって、コミュニケーションツールの1つでありましょう。型にはまった潤滑油に従っているふりをして、心の中ではあっかんべーしています。ちなみに血液型をはかったことはありません。

 

カイシャに入ってからは「絶対にBかAB」と言われ続け、ここでわたしはマイペースな変わっている子として可愛がられています。マイペースに見えることも、変わっている風に見えることも、血液型の問題ではなくご自身の価値観の反射でしかありません。マイペースで変わった子という部分はわたし自身で判別がつくことではないからなるほどねと思うだけですが、それが直ちに血液型に変換されるのに趣味が合わない嫌いな服を着せられるような不快感を覚えるのです。

とはいえわたしを咎めるわけでもなく、面白がって放っておいてもらえる点で、わたしはカイシャ選びに成功したと言えるでしょう。

 

使う文法は違うけれど全力で可愛がってくれる諸先輩方の、好きなタイプ、過去の恋愛遍歴、彼氏はいるのか、などなどなどなどの執念深い追求にウソとホントを織り交ぜて恥じ入りながら適当に答える夜は、愛を注がれていることを実感しながら疲労困憊になります。

この先ずっと、マイペースで気分屋で、空気は読まないなんて言われているナントカ型(失敬!)のフリをしておこうかしら。

くちべた

どうやら話し言葉より書き言葉の方が自由なようで。話すのがゆっくりだと言われるのは、ものを書くときにする言葉の吟味を話し言葉でも行なっているからかもしれません。タイミングを逃すこともしばしば。言葉を待ってくれる人たちを、わたしは愛してやみません。

 

この間会社で受けたEQIという行動特性のテストにはくっきり口べたが反映されていて、まあそうでしょうね、と言うしかありませんでした。自省意識が強く、なんやかんや振り返って自己を客観的に振り返り、1人で解決しようとするから、またはするから誰かに自分の考えを言ったりすることが少ないそうで。自省意識が一番高く、自己を主張する項目が飛び抜けて低いのでした。自己完結が多いから、近寄りがたさも与えるのでしょう。

プロファイラーの資格を持つ上司には、好きな人に対しては行動で表すけど好きと言葉にはしない人だと言いあてられました。それ、知ってる。察してマンからはそろそろ脱却したいと思っているから、半ばリハビリのように自分を吐露するブログを始めたわけです。

 

わたし自身のことを話すのはずっと苦手で、ピーマンと人参は嫌いだけれど、それを主張できないから我慢して食べていたし、焼きそばにピーマンを入れないでほしいと言えるようになったのはここ数年のこと。自己開示を少しずつし始めたのが大学一年の心理学を学んだあとだから、言葉で伝える5年生とでも言いましょうか。好きな人に、ものに好きと言いはじめたのも体感的には最近。

 

全てを伝える、知ることは不可能だからこそ、言葉で伝えるのが大切なことはわかっています。とはいえいきなり全員に、は無理なので、大好きな人たちに愛を伝えられるよう、書き言葉の世界の片隅で修行中です。

拝啓、関先生

2月、眠気を誘うもったりした空気の塾の事務室で先生は

「あなたもこちら側の人間だからシャカイで生きていくのがきっと大変だ」

といったようなことをおっしゃいました。

 

世の中と自身の間に線を引き、漢文を読み解くことに至上の喜びを見いだす、独特なファッションセンスの古文講師。

管理されるのが大嫌いな先生は新しく導入された勤怠管理システムのボタンを押す時いつも、嫌悪感をあらわにしていましたね。先生は今も元気にヒョウ柄のネクタイとクロコダイルのベルトを締めて、事務室に置いてあるお菓子を際限なく食べているのでしょうか。(たまにはご自身で補充もしてください!)

 

わたしは笑顔の鎧と「大丈夫です!頑張ります!」の盾を手に、シャカイで働いています。数字を追いかける、または数字に追いかけられることへの素質は先生が見抜いていらっしゃったように、あるとは言えません。

それでも怠け者のわたしは目標がないと愛しの寝床から抜け出すこともしないでしょうから、生きていくために胸の動悸を抑えながら身を起こします。

 

会社に行けば周りにはステキな大人がいて、何かと助けてもらい、甘やかされ、会いたい人も楽しいことも学びもあるのです。感謝しています。ここで良かったと思います。それでも家にいたいのですから、笑ってしまうほかありません。

 

耐えられなくなったらいつでも塾講師の口利きをして下さるという先生の言葉をぼんやりと頭に思い浮かべたりも致しますが、もう少し、資本主義の前線で足掻いてみようと思います。

先生も、お元気で。

 

敬具

日曜日の夜、やってくる朝をうとみながら

かにのにかより

 

マタハラの話

ハラスメントの講師の先生は何気なく「もし周りの方が妊娠してしまったら、本心では面倒だと思うかもしれません。でも、まずおめでとうございますと言って下さい。」と、言った。

 

途端研修会場の壁がこちらへせり出してくるような感覚がして、つらぁ〜むりぃ〜ってなる。

妊娠しちゃった、してしまった、させてしまった、といった言葉が持つまるでそれが誤りであるかのような後悔の匂いが嫌いだ。妊娠した、で良いでしょう。犯罪の被害者になって文字通り妊娠してしまった、させられてしまった、といった場合もあるし、一概には言えないけれど。

 

その語尾が悲しかったし、妊娠=働けない=生産性がないし引き継ぎも肩代わりも代わりの人を探すのも大変=面倒の図式も悲しかったし、面倒と思うメンタルが一般的な例として使われているのも悲しかったし、どちらかと言えば当事者の方である女性の講師がそれを発さなければならないことも悲しかった。

 

そんなことだから少子化待ったなしなのだ。

妊娠が迷惑とも取られかねない社会で生きる人々に数が足りないから3人産みなさい、なんてちゃんちゃらおかしい。職場で妊娠が発表されたらみんなでおっきな羽つけて太鼓を打ち鳴らしサンバでも踊り狂えば良いのだ。

 

子どもを産んだって産まなくたってそれぞれが尊重される、そんな世界を夢見るわたしは偽善者でしょうか。

満員電車が嫌いだ

1ヶ月以上経ったわけだけど、人間がギュウギュウに押し込められた箱で運ばれることに慣れることはない。

見渡す限り目に入るのは、背中に当たるのは不快な熱源で、自分もその内の1つだと思うとうんざりする。

 

上を向いてまだ誰にも吸われていない空気を求めるわたしは池の鯉みたいだ。パンくずなんて持ってもいないのに、それを緑に濁った水面に投げ込むフリをして、滑稽にパクパクと口を開閉するまだら模様を笑ったあの光景が蘇る。

 

毎日毎日都心にこれだけの人間を運ばなければならないこの状況自体がそもそも間違っているのだ。どう考えても何かしらの設計ミスであろう。パーソナルスペースのパの字もない環境に慣れてしまってはならないと思うけれど、生きやすさを優先するなら精神を飼いならす方が楽なのかもしれない。

 

電車に乗った途端皆猫になる魔法でもあれば良いのに。